世界サメ図鑑(2010年)によると、人間によって漁獲されるサメの数は年間で5,000万〜1億匹にもなるとみられています。
また、サメの種数は557種類ほどいますが、そのうちのおよそ30%にあたる168種が絶滅危惧種と評価されています。
サメの保護論を耳にしたことがある人は多いかもしれませんが、そのはじまりがいつだったのかを知る人はいないのでは?
今回のブログでは、サメの保護論のはじまりのきっかけやサメの保護が必要になった理由、時代背景などをわかりやすく解説します。
サメ保護論のはじまり
かつてはサメの保護論は存在しませんでした。
では、いつ頃からサメの保護論が登場してきたのでしょうか。
1960年代にはサメ保護論は存在しなかった
谷内透先生の『サメの自然史(1997年)』によると、1960年代には資源保護を除いてはサメ保護論は存在しなかったそうです。
1980年代にサメ保護論が登場
かつてのアメリカでのサメ研究は海軍の依頼で行われており、その研究内容はいかにしてサメを追い払うかというものでした。
ところが、この研究は成果が出なかったために衰退していきます。
1980年代になり、人々の環境問題への関心が高まるのと時を同じくしてサメ研究も撃退法から保護へと変化していきました。
サメを取り巻く状況は、1980年代から1990年代初頭にかけて大きく変わっていったのです。
なぜサメの保護が必要になったのか
ではなぜサメの保護が必要になったのでしょうか。
フカヒレの需要
「海のギャングサメの真実を追う(2007年)」によると、1970年代の終わりから1980年代にかけて、アメリカのメキシコ湾でフカヒレを目的としたサメ漁業が急速に発達しました。
急激に漁獲圧が高まったため、当然ながらサメの数は減少してしまい、絶滅が危惧されるようになってしまいました。
漁獲能力の向上による漁獲や混獲
戦後、魚群探知機が発達し、漁船や漁具が進化して船も大型化したことによって、人間は魚を根こそぎ獲ることができるようになりました。
かつては、漁獲が低迷するまで獲り尽くし、他の漁場に移動するということを繰り返すような持続不可能な漁業が行われていたため、サメ以外の魚たちも乱獲の対象になっていた歴史があります(参考記事:「乱獲とは?問題点や解決策をわかりやすく解説」)。
サメ以外の魚が乱獲されることはサメの餌が減るということにもつながるため、その海域の生態系に打撃を与えることになります。
また、魚を獲ればサメも獲れます。
サメを対象としていない漁業だとしても、サメは混獲されてしまうのです。
そのため、サメ以外の魚を乱獲することはサメの個体数の減少に拍車をかけてしまうということになります。
1990年から1995年の5年間はサメの漁獲量は年々増加して120%増加したそうです。
また、2010年に出版された世界サメ図鑑(2010年)によると、人間によって漁獲されるサメの数は年間で5,000万〜1億匹にもなるとみられています。
スポーツフィッシング
「サメガイドブック―世界のサメ・エイ図鑑」によると、2000年代以前にはホホジロザメ、ヨシキリザメ、イタチザメ、アオザメなどの大型のサメを仕留めることで劇的な感動を味わおうというスポーツフィッシングや観光企画が流行していたそうです。
また、ホホジロザメは1975年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督による映画「ジョーズ」の影響で釣り人に乱獲されてしまったという苦い歴史があります。
サメ保護論が台頭した背景
サメ保護論が台頭した背景には、アメリカにおけるサメ保護の世論の高まりと世界的な環境問題への意識の高まりがあります。
サメ保護の世論の高まり
フカヒレを目的としたサメ漁業が急速に発達したことにより、アメリカではサメの絶滅が危惧されるようになりました。
1989年、アメリカではサメの漁獲量が急激に減少したことからサメ類の漁業管理計画 (FMP / Federal Management Plan)の設置を要請、1993年に実施されることとなりました。
ワシントン条約でサメ保護が議題に
1994年には、アメリカでサメ保護への世論が高まる中、ワシントン条約締約国会議にてアメリカはサメに関する決議案を提出しました。
この決議案は、サメの保護について議論を開始を促す内容だったそうです。
その結果、サメ取引や生物学的情報に関する情報を収集することが採決されました。
ワシントン条約は1973年3月3日にワシントンD.C.で採択され、1975年7月1日に発効、日本は1980年(昭和55年)に条約を締結し、同年11月から発効しています。
1970年以降、環境に対する意識の変化が起きていたことはワシントン条約の発効時期からもわかりますね。
環境問題への意識の高まり
サメ保護論が台頭した背景には1970年代から1990年代ごろにかけての世界的な環境問題への高まりといった人々の意識の変化も深く関わっています。
スイスのヴィンタートゥールに本部を置く民間のシンクタンクローマクラブ(Club of Rome)が1972年に発表した「成長の限界」において、人口増加や工業発展がこのまま進んだ場合、地球上の天然資源が枯渇し、環境汚染が自然のもつ容量を超えて進行すると警鐘を鳴らしたことが大きな契機となり、国際的に環境問題が注目されるようになりました。
同年、1972年6月5日から16日までストックホルムで開催された「国連人間環境会議」では人間環境の保全と向上に関し、世界の人々を励まし、導くため共通の見解と原則が必要であると考え、「ストックホルム宣言(人間環境宣言)」を定めました。
1980年代になると、地球温暖化問題とオゾン層の破壊というふたつの地球環境問題が注目されるようになりました。
1992年6月3日から14日、ブラジルのリオデジャネイロにおいて、世界180カ国の政府や国際機関の参加のもと環境と開発をテーマにした「国連環境開発会議(UNCED / 地球サミット)」が開催。
ストックホルム宣言を再確認するとともにこれを発展させた「リオ宣言(環境と開発に関するリオ宣言)」が採択されました。
このようにサメの保護論が台頭した時代は世界的に環境問題が台頭してきた時代とおおよそ一致するのです。
サメ保護論の歴史年表
年 | 内容 | 分類 |
---|---|---|
1970年代の終わりから 1980年代 | メキシコ湾でフカヒレを目的としたサメ漁業が急速に発達。急激に漁獲圧が高まったため、当然ながらサメの数は減少してしまい、絶滅が危惧されるように。 | アメリカ |
1980年代 | 人々の環境問題への関心が高まるのと時を同じくしてサメ研究のテーマが撃退法から保護へ | アメリカ |
1987年 | アメリカ板鰓類学会(American elasmobranch societyi)の設立 | アメリカ |
1989年 | 米国5海区漁業管理協議会がサメ類の漁業管理計画 (FMP / Federal Management Plan)の設置を要請 | アメリカ |
1991年 | The IUCN SSC Shark Specialist Group (SSG) 発足 | 国際自然保護連合(IUCN) |
1991年 | サメ類の漁業管理計画(FMP)草稿がアメリカ官報に掲載される | アメリカ |
1991年 | ホホジロザメを保護するための法律が制定 | 南アフリカ |
1993年 | IUCN SSG第1回会議 | 国際自然保護連合(IUCN) |
1993年 | サメ類の漁業管理計画(FMP)実施 | アメリカ |
1994年 | CITES 第9回締約国会議 (フォートローダーデール)にて、サメ取引や生物学的情報に関する情報を収集することが採決。 | ワシントン条約(CITES) |
1994年 | ホホジロザメの網漁禁止 | アメリカ カリフォルニア州 |
1995年 | CITES 第12回動物委員会 | ワシントン条約(CITES) |
1995年 | ICCAT仮設サメ研究部会設置 | 国際機関 |
1995年 | ICES 第2回板鰓類WS | 国際機関 |
1995年 | ICCAT仮設サメ研究部会設置 | 国際機関 |
1996年 | IUCN 海産魚類 WS | 国際自然保護連合(IUCN) |
1996年 | CITES 第13回動物委員会 | ワシントン条約(CITES) |
1996年 | ICCAT第1回サメ研究WS (マイアミ) | 国際機関 |
1996年 | ICCAT混獲小委員会設置 | 国際機関 |
1996年 | IUCN SSG 第2回会議 | 国際自然保護連合(IUCN) |
1997年 | IUCN SSG 第3回会議 | 国際自然保護連合(IUCN) |
1997年 | CITES 第10回締約国会議(ジンバブエ) | ワシントン条約(CITES) |
1997年 | ICCAT第2回サメ研究WS(清水) | 国際機関 |
1997年 | ICES 第3回板鰓類WS | 国際機関 |
1998年 | FAOサメ専門家会議開催(東京)サメ類の保護と管理に関する国際行動計画を作成 | 国連食糧農業機関(FAO) |
1999年 | サメ行動計画作成検討委員会 | 日本(水産庁の委託事業) |
2000年 | CITES 第11回締約国会議(ケニア)アメリカとオーストラリアがホホジロザメを付属書Iに掲載する共同提案を出したが否決、イギリスがウバザメをを付属書IIに掲載する提案を出したが否決 | ワシントン条約(CITES) |
2002年 | 第12回ワシントン条約締約国会議(COP12)サンティアゴ会議にて、ウバザメとジンベイザメを附属書IIへ掲載 | ワシントン条約(CITES) |
2004年 | 第13回ワシントン条約締約国会議(COP13)バンコク会議にて、ホホジロザメを附属書IIへ掲載 | ワシントン条約(CITES) |
2010年 | 第15回ワシントン条約締約国会議(COP15)ドーハ会議にて、アカシュモクザメ、シロシュモクザメ、ヒラシュモクザメ、メジロザメ(ヤジブカ)、ドタブカ、ヨゴレ、ニシネズミザメ、アブラツノザメを附属書に掲載するという4つの提案が提出され、8種のサメを附属書IIに含めることが提案されたが、否決 | ワシントン条約(CITES) |
2013年 | 第16回ワシントン条約締約国会議(COP16)バンコク会議にて、ニシネズミザメ、アカシュモクザメ、シロシュモクザメ、ヒラシュモクザメ、ヨゴレを附属書IIへ掲載 | ワシントン条約(CITES) |
2016年 | 第17回ワシントン条約締約国会議(COP17)ヨハネスブルグ会議にて、オナガザメ、クロトガリサメを附属書Ⅱへ掲載 | ワシントン条約(CITES) |
2022年 | 第19回ワシントン条約締約国会議(COP19)パナマシティ会議にて、メジロザメ科のサメ全種(11属60種)、シュモクザメ科のサメ(2属9種)をワシントン条約の附属書Ⅱへ掲載 | ワシントン条約(CITES) |
まとめ
サメの保護論は1980年代後半ごろからアメリカで台頭してきました。
そのはじまりは、アメリカでサメの撃退法という研究テーマが衰退してしまったこと、フカヒレ目的のサメの乱獲で絶滅が危惧されたことにより、サメ保護の世論が高まったことが挙げられます。
また、グローバルな場であるワシントン条約締約国会議でアメリカがサメの保護の決議案を提出したこと、世界的に環境保護問題への意識が高まっていたことから、サメの保護論はアメリカだけではなく世界に広がっていったのではないでしょうか。
1994年にワシントン会議の議題にサメの保護が上がってから30年近く過ぎましたが、現在も絶滅危惧種のサメの個体数は回復しておらず、付属書に掲載されていくサメは増える一方です。
サメたちが直面している問題は、フカヒレのための乱獲や密漁(IUU漁業)、2021年になっても密かに行われていることが発覚しているシャークフィニング、海洋酸性化、ゴーストフィッシング、地球温暖化による海水温の上昇による酸素不足などさまざまなものがあります。
確かなのは、その問題のどれもが人間により発生しているということです。
その中でも、海洋酸性化、ゴーストフィッシング、地球温暖化による海水温の上昇による酸素不足などはサメだけではなく、海で暮らす多くの生きものたちに悪い影響を及ぼしたのち、巡り巡って人間の生活にも問題を発生させます。
サメの保護論というと、サメのことしか考えてないと思われがちですが、それほど単純な話ではありません。
地球上のありとあらゆるものは何らかの形で連鎖しています(参考記事:「サメの保全と環境問題〜SDGsとのつながりとは」)。
海で起きていることや、サメたちのためだけではなく、自分自身のためにも今できることを探してみましょう。
冷暖房の温度調整をしたり、ものを使い捨てせずに長く使うなどいろいろなことができるはずです。
小さな心がけかもしれませんが、それが巡り巡ってサメの保護にもつながっていくのではないでしょうか。
参考文献一覧
(2)スティーブ・パーカー (著)、仲谷一宏 (監修)、 櫻井英里子 (翻訳)『世界サメ図鑑』ネコパブリッシング、2020年(第5刷)。
(3)中野秀樹『海のギャングサメの真実を追う』成山堂書店、2007年(初版)。
(4)中野秀樹、 高橋紀夫『魚たちとワシントン条約 (マグロ・サメからナマコ・深海サンゴまで)』文一総合出版、2016年(初版第1刷)。
(5)谷内透『サメの自然史』東京大学出版会、1997年(初版)。